脳みそお花畑技術楽観論
脳みそお花畑で技術に対して楽観論者だ。
なので、逆張りかつ頭お花畑なのかもしれないけど、読みたい文章が読みたい人に届くようになるんじゃないかな。とおもっている。 今は質がそれなりのサイトをコピペして改ざんしているだけだけど、きっとそのうち生成できるようになるはずだしもうなってそう。
昔はワードサラダって言って単語は散りばめられてるけど日本語として意味をなさないレベルだった。 それが「霊のせいです」みたいなイミフだけど文法的には通るし、ヘタすると信じちゃえる(まじかよ)ところには来ている。 正しくは、改ざんだからそうなってるだけっぽいけど。
今まだ検索エンジンが負けるのが悪いでしょ。 そんなクソみたいなのに負けるのもだせーし、クソみたいなことするのもだせーけど、読みたいものが読みたいように生成されるのは、正しい未来な気がしている。コンテンツはほっといたら生えてくるものじゃないよ、ってのは理解してるつもり。ただきっと要約とかそういうのはいい感じになっていかなければいけない。
自動生成と検索エンジンの戦いの末に、読みたいものだけ読む世界になるんじゃないかなあ。甘やかされる世界。 ただそれを読んでると広告主に思われてるのが人間かはあやしいな そちらがわも人間のような何かだろうな。
「良いアイデア」の扱い
だいたいおもいつく「良いアイデア」なんてものは良いアイデアであることはない。なので、良いと思ったアイデアを作ってしまって世に出していては世の中のスピードに全然ついていけない。だから、検証可能な最小限の方法(基本は作らずに)でやってみて数打って方向修正していく必要がある。そのとおりだと思うし、納得もしてる。
でも、作らなかった「良いアイデア」って悪い具合に発酵していって、あれさえ作っていれば、みたいな思い込みがどんどん強まっていってしまう。他のアイデアが出てくるのも防いでしまう。さらには、「良いアイデア」を作る過程で、微妙な発見や微妙な学びがあり、「良いアイデア」を作ることに意味を見出すこともできてしまう。
「良いアイデア」をできれば作らずに、うまく供養する方法を知りたい。